日本ゲシュタルト療法研究所

〜Gestalt Institute of Japan Since 1978〜

私の記憶に残る臨床体験(臨床心理学第9巻第1号)
私の記憶に残る臨床体験は私自身が経験したもので、私の心理臨床を大きく変えたものである。
それは、留学先の宿舎で睡眠時間を削ってマスターの論文を書いていたある夜、私は夢を見た。
愛用のテニスのラケットが根元から折れている夢で、気持ちが悪かったので、朝、スーパーバイザーの教授を訪ねた。
夢の話をすると、いきなり「折れたラケットになってごらん」と言われたので、躊躇していると、「I am a racket.」と、言うのだよというのである。
そのようにすると、今度は、「今、あなたはどのようになっているか」と、聞かれるので、「I am broken by the neck.」と言ってみた。
その瞬間、それまでは気がつかなかったけれど、勉強でくたくたで挫けるばかりになっている自分が体感できたのである。
胸に熱いものが込み上げてきて、ジーンと泣けてきた。
それは実に強烈なインパクトであった。

次のセッションでは、「どうであったか」と問われた。
「エキサイトしました」と、答えながら自分のことを話したのである。
留学一年間が経ち、単位を取りながら、論文も書いているときだったので睡眠時間を少なくして頑張っていたのであるが、「夢を見て挫折している自分の姿を見たような感じがした」と言うと、「テニスのラケットであるあなたは夢の中でどこに置かれているか」と聞かれた。
そこで私は、「ベッドの上です」と答えた。
そのベッドというのは代々アメリカの学生が寝ている藁でできた代物であった。
「日本ではもうこんなベッドを使っていない古いものだ」と言うと、「そのベッドはどうしているか」と聞かれる。「値打のないベッドだが折れたラケットを支え憩わせている」と答えた。
答えたとたんに、値打ちのないベッドは私であり支え憩わせているのも私である、すなわち挫折している自分を自分が支えていることに気づいて、「あっ、そうか」とからだ中が熱くなる経験をしたのである。
そこで、これはどんなセラピーなのかと思い、尋ねるとゲシュタルト療法ということであった。
これが、例の「グロリアと3人のセラピスト」のフィルムを観たとき、一番嫌な感じを受けたものかと思ったが、体験してみると、見方が違っていた。

この体験をするまでの私は、来日したロジャースに会い、ロジャース流のセラピーを心がけていたのであるが、「感情の明確化」については疑問に思っていた。
人間のもっとも人間らしい特性である感情までもセラピストは奪ってはいないかということであった。
それゆえ、ゲシュタルト療法の自らが自らの感情に気づきをもつというところが新鮮で合点のいく思いがしたのである。

以後、私はゲシュタルト療法に関心を抱き、ポルスター博士夫妻のもとでトレーにニグを受け、ディプロマを取得したのである。
1976年に帰国してゲシュタルト療法の心理臨床を積み重ねることができている。
思えば、この夢のセラピーが新しい私を築くきっかけであった。
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「相互作用を重視する理論」朝倉書店(未完)
倉戸ヨシヤ(放送大学大阪学習センター・大阪市立大学名誉教授)

「相互作用を重視する理論」朝倉書店(未完)

先に「相互作用を重視する理論」として
ゲシュタルト療法とエンカウンター・グループの2つを論じた
(「心理学[理論]事典」中島義明編、2001)。
そこで本稿ではそれらの理論に基づいた実践例を挙げたい。
なお、事例やグループの記録は、
登場するクライエントや参加者から掲載の許可を得ているが、
プライバーシー保護のために修正を加えてある。

1.ゲシュタルト療法の場合

以下に紹介するものは筆者がセラピストとして関わったゲシュタルト療法の場合であるが、いかに相互作用(relationship)を重視しているか、事例に添ってみてみよう。

 まず、この事例はイメージ法によるものであり、かつグループ形式によったものである。
すなわち、セラピストが、イメージ法を導入した後、「
どなたか経験してみたい方はどうぞ」との治療的招き(Therapeutic invitation)をするが、
それに応じたクライエントのあるセッションでの逐語記録である。

 逐語記録に先立ち、まずイメージ法について簡単に述べておこう。
イメージ法とは、自分の人生や問題や課題を抱えている現在の自分を何かのイメージに譬えてもらって介入していくものである。
いわば投影法に似た方法であるが、たとえば、筆者の場合で言えば、教育分析中に、「エレベーター」に自分の存在を譬えて、「私はエレベーターです」と語り出したことがあった。
そしてセラピストの<そのエレベーターは今、どうしています>の介入に、
「人が乗ってきて8回へ行くようボタンを押されているので、8回へ行きます….8回で降りてくれたので、ほっとしていると、12階のボタンが押されているのに気づく。そこで12階へと行くと、さらにB2のボタンが点灯している。」
ここまで来て、セラピストから今、何に気づいているか尋ねられたので、「24時間、休みなしで働いています。くたくたです。それが私です…..なんだか、自分の現実の姿を垣間見たようで、少々悲しくなります」と応えた。
まさに、休めず、働きづめなのに、故障することが許されない。故障でもしたら、信用が丸つぶれになると、自分の生きざまをまざまざと感じる経験をした。これがイメージ法の一端である。

 導入には、この他、「海に潜ってみる」「バラの花になってみる」「台所用品」になってみるなど、譬えるテーマ(guided imagery)があらかじめ用意されているものもある。
このイメージ法の狙うところは、譬えた事物になってみて、すなわち自己を投影してみて、気づきを得ることにある。
また、その理論的背景には、イメージ法におけるイメージであれ、夢に出てくる登場人物や事物であれ、それらは自己の投影したものに他ならないとするゲシュタルト療法の知見が基になっている。

 さて、ここに登場するクライエントは50歳代半ばの女性で、医療老人ホームに勤務する指導員である。
セラピーの場は研修所で、12人の参加者が一泊2日で1セッション2時間を合計5セッションを経験するグループ・セラピーである。

 セラピーは、<どなたかイメージ法を経験してみたい方はどうぞ>というセラピストの治療的招きに応じたクライエントの発言から始まる。

ク:「私は鶏です」

セ:<ハイ。鶏なのですね>

ク:「私は鶏でもチャボですので、檻の中に入っているのは大嫌いなんです」

セ:<なるほど。しかし現在は檻の中に入っているのですか>

ク:「現在は入っています…..どこか飛び跳ねてみたいです」

セ:<私は自由に飛び跳ねてみたいです>

ク:「小さいときは束縛されましたので、束縛されたくないのです」

セ:<私は束縛されたくありません>

ク:「私は束縛されたくありません」

 ここでは束縛されたくないというクライエントの気持ちが共に「今—ここ」で実感されるようセラピストが反射している。
同時に、強調もされている。
また、束縛という言葉であるが、言葉自体はセラピストにも了解はできている。
しかし、目の前にいるクライエントが、小さいときとは言っているが、どのような束縛を受けたのか、そのプロセスや、またそれは何からなのかなどは、分かってはいない。
すなわち国語辞典的には、あるいは一般論としては、了解できていても、独自の経験として喋っているクライエントと共有できる言葉にはまだなっていない。
そこで、共有すべく以下のように尋ねている。

セ:<小さいとき束縛されたとおっしゃいましたが、どんな束縛をお受けになりましたか、思い出すことがありますか>

ク:「両親が違いますので、顔色ばかり見て大きくなりました」

セ:<なるほど…..お幾つぐらいのときですか>

ク:「はっきり意識し出したのは9歳のときです」

セ:<ご両親が違うとおっしゃったのは>

ク:「もらわれていきましたから。ちょうど1か月くらいのときからもらわれていきました。9つまで私が自分の親だと思っていた人が死にましたとき分かったんです」

 このあたりも、クライエントの話す言葉をセラピストがズレることなく共有するための介入である。
ゲシュタルト療法では、この言葉や経験を共有することがクライエント・セラピスト間の相互関係を醸成し、セラピーのプロセスを進展させる基になると考えている。
それゆえ、分かった振りをせず、尋ねたり確認したりして、共有することをこよなく大切にしている。

セ:<分かったときのお気持ちは今でも覚えていらっしゃるかと思いますが、どんなお気持ちでしたか>

 気持ちや感情に気づくことも自己洞察に繋がると考えられている。
すなわち他ならぬ自らの感情に気づき、自らと自らがコンタクトすることは、とりもなおさず、自分自身( authentic self )になることだからである。
しかし、日常生活の中では、感情を押し殺して、その場に適応することが優先されていることが多いのではないか。
感情を押し殺すということは、精神分析で言う抑圧の概念と近似値であるが、ゲシュタルト療法では、「地」に追いやることをさし、心残り、未完結の経験と呼んでいる。
それゆえセラピーでは、何を感じているか、どのような気持ちかなどに気づく介入をする。
すなわち、「図」にのぼらせる関わりをするのである。

すると、

ク:「私は、他にも兄弟がたくさんいたのに私だけなんで里子にやられたのか…それから後からきた人が、ちょっと水商売上がりの人で厳しかったので…」

セ:<後からきた人とは>

ク:「後添えにきたお母さんですが、その母がとても厳しかったので、辛い思いをしました。」

セ:<その辛いお気持ちをどなたにおっしゃりたいですか。
死んでしまった方でもいいし、ご自身でもかまわないし、僕でもかまわないし、どなたに伝えたいですか。

かりに伝えられるとしたら>

 この介入も、ゲシュタルト療法の特徴かと思われるが、「図」にのぼらせるだけではなく「表出先(あるいは対象)」を模索することをする。
すなわち、過去の押し殺した感情の表出先をイメージのなかに登場させ、表出する。
そして表出することによって表出先と、また自分自身とコンタクトをしながら洞察を得るのである。
そして「今—ここ」というセラピーの場で心残りを取り去ったりたり、未完結の経験を完結していく。

ク:「死んだ母親に伝えたい。
生んでくれた母親に、私だけなんでひとり里子に出されたのかと思って、それだけは言いたいです」

セ:<分かりました。ところで、お母さんは亡くなられたのですか。
(ク:うなずく)
いくつの時ですか>

ク:「18のときです」

セ:<ずいぶん昔のことですね>

ク:「はい、そうです」

セ:<かりに、お母さんがどこかで聞いていらっしゃるとしたら、そう想定して…..どんなことをおっしゃりたいですか。
お母さんに言いたいとおっしゃったけど。お母さんに話しかけてみませんか>

 これはチェア・テクニックといわれているもので、古典的には空の椅子(空いている椅子)が使われる。
その空の椅子に相手を座らせ対話するのである。
この場合は、イメージのなかで母親を想定して対話がはじめられている。
セラピーの場が日本間の場合は、財布団などが、空の椅子となる。

ク:「私だけどうして、兄弟が10人もいたのに、私だけどうして里子にやられる具合になったのか、聞きたいです」

セ:<もう一度おっしゃいませんか>

ク:「兄弟は10人もいたのに、私だけどうして里子に出されるようになったのか、聞きたいです」

セ:<聞きたい想いがおありになると思いますが、どんなお気持ちからお母さんに聞いていらっしゃりのかしら。お母さんに伝えてみませんか。
伝えられるとしたら>

ク:「私はもらわれていったのですが、私はあまり幸福ではなかったので、自分を押さえるように押さえるようにしてきたのですよ。
自由に振る舞うことができなくって、もの言うときは、こう言えば、征伐されないかと、顔色ばかりをみて育ちました」

セ:<そのような辛い経験をされたのですね>

ク:「そして次から次へと年寄りの世話をさせてもらいまして、4人送りました。
自分の親は見送ることができませんでしたが、義理のお父さんとお母さんと、義理のお母さんの両親を見送りました。」

セ:<それをお母さんに伝えてみませんか>

ク:「私はあなたを自分の手で見送ることができませんでしたが、後で、義理のお父さんとお母さんをあなただと思って見送ってきました」

セ:<一ヵ月とおっしゃったから、お母さんの顔を覚えていらっしゃらないかと思いますが…..>

ク:「覚えています」

セ:<覚えていらっしゃる>

ク:「たまにしか、1年に2回だけでしたが、内緒で会ってました」

セ:<なるほど。そうするとお母さんの顔を覚えてらっしゃいますか>

ク:「はい。父の顔は知りません。覚えがないです」

セ:<お母さんの顔はお分かりになる>

ク:「はい。私のように小柄で、色は黒いですが、後は同じです」

セ:<私は小さなチャボのような鶏ですとおっしゃったのは、そして檻のなかに入れられたくない、自由になりたい、束縛されたくない、とおっしゃったのは、そういう経験がおありになるからですね>

ク:「はい」

セ:<いま、お母さんの顔を思い出すことができますか>

ク:「はい」

セ:<映ってます>

ク:「はい」

セ:<お母さんの顔がみえますか>

ク:「はい」

セ:<一度、そのお母さんになってみませんか>

母親の顔がイメージのなかに思い出されるかどうかという介入は、五感を大切にすることが現実適応の鍵だと考えるゲシュタルト療法の特徴であるが、ここでは加えて、「今—ここ」で関わるための臨場感を醸成するのがもくろまれている。
そして、役割交代して母親になってみることを提案している。これは母親とのコンタクト、ひいては母親に対する自らの感情や思いに気づきを持つことを促進する介入である。

セ:<実の娘から、その辛かった話をされて、どうして私だけ里子に出されたのかと言われて、お母さん、どんなことを感じたかしら。
お母さんの気持ちが想像できますか。
お母さんはどんなことをおっしゃるかしら>

ク:「ひとつから、1ヵ月から大きくしてくれたお母さんは、生んでくれたお母さんの妹なんですね。
それで女の子だから、大きくなったら嫁に出さなくてはいけない。
おばちゃんのところやったら幸福になれると思って子に出したらしいです」

セ:<話しかけてみませんか。お母さんの気持ちになって>

ク:「はい」

セ:<小さいときどんなふうに呼ばれてたのかしら>

ク:「私は○○で生まれて○○で育ったので、小さいときは“こいさん”と呼ばれてました。」

セ:<“こいさん”ですか。お母さんになったつもりで、“こいさん”と呼び掛けてみませんか>

ク:「“こいさん”おばちゃんのところやったら、あなたが幸福になれると思って手放したんやで…..」

セ:<そうだったのですね>

ク:「今のお母さんが死んでから、9つまで大きくしてくれたお母さんが死んでから、後のお母さんがきたとき取り戻そうとしたけど、できなかったと言ってました」

セ:<はい>

ク:「家に居るお父さんが私を手放せなかったと言ってました」

セ:<お母さんとしては、引き取りたかったけれど、引き取れなかったわけですね。
引き取りたかったけれど引き取れなかったお母さんのお気持ちはどんなお気持ちですかね。
“こいさん”に話しかけてみませんか>

ク:「可哀そうだと言ってました」

セ:<おっしゃってみませんか。“こいさん”と話しかけて……>

 この介入は、なかなか対話ができず、「言ってました」と過去形で、しかも第3者的に表現しているクライエントに対するものである。対話とは、二者間の、しかも現在形でしゃべることを基本とする。

ク:「こんなに不幸になるんだったら子にやるんじゃなかった…..」

セ:<はい…..“こいさん”に戻りましょうか。
今度は、“こいさん”はどんなふうにお母さんに応えますか>

ク:「私も帰りたかったけど、生みの親より育ての親とあるように義理に縛られて帰れなかった」

セ:<私も帰りたかった>

ク:「十分帰れるチャンスもあったけように思うのですけど、私も、年老いたお父さんを置いて帰るわけには行いかないという頭がもたげて、年寄りに仕えてきました」

セ:<最後まで義理に縛られてしまったということですね。ご自身でも帰りたかったけど>

ク:(涙ぐむ……..)

ク:「だから私には青春がなかった」

セ:<人生は1回きりしかないから、もう取り返しがつかない。どうにもならない。
しかしもしもかりに、考えるだけでもばからしいことかもしれませんが、かりに可能だとすれば、どんなことをやってみたかったですか。
やれなかったことなどありますか>

ク:「今の時代でしたら、おそらく両親のもとに帰っていたと思います。
しかし当時は割り切ることができなくて、押さえるようにしてきました。チャンスを逃してきました。」

セ:<チャンスを逃したとおっしゃったけれど、どんなチャンスですか>

ク:「兄弟とおしゃべりしたり…」

セ:<なるほどご兄弟は今は>

ク:「○○にいます」

セ:<お話になることがありますか>

ク:「はい」

ク:「△にいるもののところへはいけないのですか、○○にいるものには電話をしたり、こちらから会いにいきます。
だけどこの前までは会いたい気持ちを押さえて我慢していました。
お互いに我慢してきました。
だからやりたいことはできませんでした」

セ:<そのような兄弟との会話というか、可能なら話をしてみたいということですね。
その他に、もしもやりなおすことができるなら、どんなことをやってみたいですか>

ク:「自分で商売をしたいです」

セ:<どんな商売ですか>

ク:「家でも商売をしてましたので、手芸のお店を出したいです」

 セラピストはそうですかと頷きながら、どんな手芸の、どんなお店かなど、夢を語ってもらった。
クライエントは声を弾ませ、目を輝かせて、まるでお店を開いているように語った。
それは、現実には、イメージでしかなく、一瞬の楽しい時間でしかなかったが、クライエントには時空間を超越した心の安らぐ経験であったようである。
そこで、セラピストは次善(second best)の策というか、今からでも現実に出来ることはないか、クライエントとともに模索する。
すなわち最善(best)なものは、もう今となっては叶わないのであるが、現状の、限界のあるなかで、何か出来ないか。
希望に繋がるものはないか、知恵をしぼるのである。
セッションの終わりである。

 以上がイメージ法によるセラピーであるが、ここでゲシュタルト療法の理論と照らし合わせながら振り返ってみよう。

 まず、クライエントの言葉や経験を共有するための介入があるが、繋がりを重視するゲシュタルト療法の介入である。
そしてクライエントの気持ちや感情に気づく介入がある。
気持ちや感情は、このクライエントにとっては「押し殺して」きたところの「地=無意識」の部分である。
それは裏を返せば、「義理にしばられて…..」が、このクライエントの「図=意識の前面」になり続けていたからである。
その「地」の部分に焦点を当て、“今—ここ”というセラピーの場においてコンタクトを持ち、「図」にのぼらせる介入が試みられている。
いったん「地」にあったものが「図」にのぼってくるプロセスには感情が溢れ出て、生き生きしたエネルギーが放出される。
このあたりは、図と地は相互作用しているということ、それは“今—ここ”において成就されるというゲシュタルト療法の理論的背景がセラピストの支えになっている。
ゲシュタルト療法では「地」に追いやられるものはコンテンツ(事柄や内容)そのものではなく、「何にゆえに、私なのか」とか、「何故そうなったのか」など、コンテンツにまつわる感情であると考えられている。
それゆえ、感情を「図」にのぼらせ、その感情にコンタクトを持ち、気づきを促進させることが目的になる。
ゲシュタルト療法は「気づきにはじまり気づきに終わる」(Polster, 1973)セラピーなのである。
そして気づきとは、“今—ここ”という現象学的場においてのみ可能になるのである。
ひとたび気づきを持つと、いわゆる「図地反転」が起こるのである。
「地」にあった経験のもうひとつの側面が浮かび上がってくる。

 それをさらに強化するために、「図」にのぼってきた感情の表出先を模索し、表出する。
この事例の場合は「生んでくれた母親」であるが、その母親にイメージのなかでクライエントの感情が表出されている。
そして表出してみて、感情を押し殺してきた意味を洞察し、気づきを得る。
すなわち図地反転が起こる。
換言すれば、固着していたものの視野が広げられ、セラピューティックな意味が出てくるのである。
図地反転が起こると、心残りや未完結の経験が完結へと導びかれる。
ここで使われている介入法がチェアー・テクニックである。
イメーの中の母親に表出したり、役割交代して母親になってみて応えたりしているのがそうである。

 セラピー最後の介入は、気づきを得たクライエントが今まで逃してきた「チャンス」をイメージのなかで、いくぶんなりとも取り戻そうとする試みである。
知恵を絞ったあげくに微かな希望が出てきている。
それは微かでもあり、次善の策でしかないが、後述にあるように、このクライエントの人生を大きく変えるものへと繋がっていくのである。

 後日このクライエントに再会する機会があった。
それは1年後、掲載許可を得るためであった。
もうすでに定年退職していたクライエントは許可を与えてくれただけでなく、後日談を話してくれた。

 たとえば、小さいときの苦労は報われたこと。
それは、刺繍を指導員仲間や回復期にある入所患者さんたちと共にはじめてバザーをして楽しかったこと。これは得意で、かつやりたかったことであっったが、それが成就したこと。

 また、入所患者さんが廊下で突然に大便を漏らした際、手際よくおむつを替えたり処理をしたため他の若い指導員仲間から一目置かれるようになったこと。
これには4人も世話をして、なかには寝たきりであったひとの下の世話や看取った経験が活かされている。

 結婚する指導員の着付けを頼まれて感謝されたこと。
これは水商売上がりの2人目の義理の母親に着物を着せられていたり、厳しく育てられたので、着付けは雑作のないことであった。

 このようなことで惜しまれて退職したが、その後も海外出張する医師家族の留守番を頼まれたり、出産した指導員の赤ちゃんのおしめの相談を受けたり、などで退職後も“引っ張りだこ”であること。

 そして最後に、「人生は捨てたものではない。苦労がことごとく反転して生かされています」と笑みを浮かべて語ってくれた。
| 日本ゲシュタルト療法研究所 | 論文紹介 | 21:18 | - | - | pookmark |
ゲシュタルト療法(Gestalt Therapy)
日本産業カウンセラー協会四国支部2006.11.25〜26 
/ 倉戸ヨシヤ(関西大学・大阪市立大学名誉教授)

1.ゲシュタルト療法とは  

 この療法は、医師で精神分析家のパールズ(Perls, F.;1897-1970)により提唱され、
自己の欲求を「形」にして表現し、
「全体」として「まとまり」のある方向へ人格の「統合」をはかることを志向している。  
 実存主義的現象学に属し、
「それが、他ならぬあなたご自身なのですね」とクライエントの生きざまに介入し、
「父親の話をされていますが、 拳骨をつくっていますね、
ご自分では気づいていますか」などと、「今ーここ」での現象に関わる。
また、この療法の特徴は非分析的で、セラピストの解釈は行われない。
その理論的・臨床的理由は、
解釈は自分で自分を発見する機会をクライエントから奪うと考えるからである。 

2.主な概念

1. 気づき:身体中にセンセーションを覚えながら認知すること。
1.「図」と「地」とその反転:「図」は意識の前面にあるもので、
「地」は意識には上がっていないもの。
その反転は、「ルビンの盃」が説明しているごとく、一面では成り立たず、
相互に関係し合っていることをいう。

2.「今ーここ」:たとえば相談室で今、経験しつつある現実は、
まさに「今ーここ」という現象学的場で生起しているのであるが、
その現象そのものをいう。

3.コンタクト:他者とどのように関わっているか、その関係の仕方をいう。


2. ゲシュタルト療法の過程
ゲシュタルト療法の過程は、「気づきに始まり気づきに終る」といわれている。
換言すれば、セラピストの介入を媒介として、
クライエントの自己への気づきにより始まり、
次から次へと新たな気づきの連続を経て、
さらなる気づきへと展開されていく一連の過程といえる。


3.ゲシュタルト療法の介入と技法  

・解釈を避ける。
・自明な現象に関わる。
・第一人称の現在形。
・未来や過去へ逃避させない。
・セルフ・サポートを志向。
・自己対決。
・非言語への注目。
・「実験」による気づき。
・「図」の言語化。
・未完結(心残り)の経験の完結。

また技法では、「ホット・シート」「ファンタジー・トリップ」
「ドリーム・ワーク」「ボディー・ワーク」などがある。


4. ゲシュタルト療法とこころのケア  

現代社会では、たとえば、自然災害や児童殺傷事件の被災者や被害者への
“こころのケア”があるが、これらへは即時対応が要請される。
しかも、これらは相談室から外へ出ていっての「今ーここ」での危機介入である。
この介入は、引きこもりや寝たきり老人などへの支援で
家庭訪問をする機会にも必要な力量であるが、
「今ーここ」で関わるゲシュタルト療法は有効である。


参考文献

・パールズ、F.(倉戸ヨシヤ監訳)
『ゲシュタルト療法ーその理論と実際』ナカニシヤ書店

・1990 倉戸ヨシヤ編
「ゲシュタルト療法」『現代のエスプリ』375号、至文堂

・1998 倉戸ヨシヤ「相互作用を重視する理論」
中島義明編著『現代心理学『理論』辞典』朝倉書店

・2001 倉戸ヨシヤ編
「エンプティ・チェアの心理臨床」『現代のエスプリ』467号、至文堂、2006

・近刊 倉戸ヨシヤ「相互作用を重視する理論」
中島義明編著『現代心理学『実際』辞典』朝倉書店
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